松方正義
天保6年(1835)~大正13年(1924)
薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(現在の鹿児島県鹿児島市下荒田) に松方正恭、袈裟子の4男として生まれる。幼名、金次郎。通称、助左衛門。号、海東、孤山。13歳の時、両親を亡くす。藩校「造士館」で学ぶ。島津久光の近習番となり、薩摩藩郡奉行、船奉行を歴任。維新後、日田県知事、租税頭、大蔵大輔などを経て、明治13年(1880)、内務卿となる。翌年、参議兼大蔵卿に就任。西南戦争後の厳しい財政運営のなか、日本銀行の設立と紙幣整理など緊縮財政に取り組む。第1次伊藤、黒田、第1次山県、第2次伊藤、第2次山県各内閣の蔵相を務め、その間、第4代、第6代内閣総理大臣を務める。日本赤十字社社長、枢密顧問官、議定官、貴族院侯爵議員、内大臣を歴任。
正木直彦
文久2年(1862)~昭和15年(1940)
和泉国堺夕栄町(現在の大阪府堺市)に生まれる。明治25年(1892)、東京帝国大学法律科卒業。明治34年(1901)から昭和7年(1932)まで東京美術学校長を務める。
千山鳥飛絶 千山鳥飛絶え
万径人蹤滅 万径(ばんけい)人蹤(じんしょう)滅す
孤舟蓑笠翁 孤舟、蓑笠(さりふ)の翁
独釣寒江雪 独り釣る寒江の雪
千の山々から飛ぶ鳥の姿が絶え
万という道々から人々の足跡が消えた
蓑笠をつけた老人が、小舟を川に浮かべ
雪の降る寒江で一人で釣り糸を垂れている
本紙にシミ、折れあり。