高屋肖哲
慶応2年(1866)~昭和20年(1945)
岐阜県安八郡大垣町(現在の大垣市)に、士族高屋海蔵の次男として生まれる。本姓は疋田、名は徳次郎、達信。明治19年(1886)、上京し狩野芳崖に入門。明治22年(1889)、東京美術学校(現東京藝大)に第一期生として入学。明治26年(1893)、同学を卒業する。明治27年(1894)4月、石川県工業学校(現在の石川県立工業高等学校)専門画学部教諭となる。明治29年(1896)8月、同学退職。明治33年(1900)、東京美術学校図案科助教になるが、九鬼隆一の帝国博物館館長更迭運動に端を発し、岡倉天心以下、橋本雅邦、寺崎広業、横山大観、菱田春草ら教授陣が辞職した「美術学校騒動」後の校制改革によって同学を依願退職する。以後は、教職や官職に就かず、画壇からも離れ、主に仏画の制作に打ち込む。岡倉秋水、岡不崩、本多天城と共に芳崖四天王と称されたが、関東大震災で多くの作品を消失し、現存する作品は極めて少ない。
本紙に若干折れあり。