坪内逍遙
安政6年(1859)~昭和10年(1935)
美濃国加茂郡太田宿(美濃加茂市太田)に尾張藩太田代官所手代坪内平右衛門の子(10人兄弟の末子)として生まれる。幼名、勇蔵。別号、柿叟(しそう)、春廼屋朧(はるのやおぼろ)、小羊(こよう)。明治2年(1869) 11歳、名古屋の笹島に転居。明治16年(1883) 25歳、東京大学文学部本科(政治経済科)卒業。同年、東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師(後に教授)となる。明治18年(1885) 27歳、日本最初の近代的文学論『小説神髄』とその実践となる『当世書生気質』を発表し、日本近代小説の先駆者となる。明治24年(1891)33歳 、『早稲田文学』を創刊。森鴎外との間に「没理想論争」を展開する。明治39年(1906)48歳、文芸協会の創設に参加。本格的なシェークスピア翻訳に着手する。同年、史劇『桐一葉』、歌劇『常闇』を上演。明治42年(1909)51歳、文芸協会演劇研究所を開設し、演劇改良運動(新劇)を弟子の島村抱月らとともにはじめる。大正4年(1915) 57歳 、『ハムレット』第1回公演。大正9年(1920)、熱海の「双柿舎」に移る。昭和3年(1928)70歳、私費を投じて、演劇博物館(早稲田大学内)を建設。同年、『シェークスピヤ全集』の訳業を完成させる。
爽やかでオシャレな仕立て、美品です。