徳富蘇峰
文久3年 (1863)~昭和32年(1957)
肥後国(熊本県)上益城郡益城町字杉堂村に生まれる。本名、猪一郎。弟に徳富蘆花。熊本洋学校に学び、同志社英学校に移るが退学。明治15年(1882)、熊本に戻り大江義塾を開く。明治19年(1886)、『将来之日本』を田口卯吉の経済雑誌社より刊行し好評を得、一家を挙げて上京する。明治20年(1887)、民友社を設立し、総合雑誌『国民之友』を創刊、政治、経済、外交など時事問題を論じ平民主義を唱える一方、森鴎外の『於母影』、坪内逍遥の『一口剣』など文学作品も掲載した。明治23年(1890)、『国民新聞』を創刊。明治28年(1895)、三国干渉を機に、富国強兵、国家主義へと転換、英文雑誌『極東』(Far East)を刊行する。明治30年(1897)、松方内閣の内務省勅任参事官に就任。昭和4年(1929)、国民新聞社を退き大阪毎日新聞の社賓となる。昭和17年(1942)、日本文学報国会、大日本言論報国会会長に就任。昭和18年(1943)文化勲章受賞。敗戦後A級戦犯容疑者に指名され公職追放。昭和27年(1952)、公職追放解除される。同年、『近世日本国民史』100巻完成。
【原文】
溪上佳人看客舟
舟中行客思悠々
烟波漸遠橋東去
猶見闌干一點愁
老蘇七十八
【読み下し文】
溪上の佳人 客舟を看る
舟中の行客思ひ悠々たり
烟波漸く遠く橋東に去る
猶闌干に一點の愁ひを見る
【現代語訳】
旅立つ舟を見送る一人の佳人
舟に乗った旅人の思いは遥か
靄に煙る曳き波は次第に東方に消え
欄干には一抹の愁いに沈む佳人の姿
共箱ではありませんが優品です。