問う「如何なるか是れ茶」。答う「陀羅尼」。茶とは何なのか、それは詮ずるに陀羅尼だというのである。陀羅尼とは何なのか。それは呪文であって、蜜々たる真言が蔵されているのである。故に、何なのかと尋ねるその知的な問いを、一挙に砕く無知の知なのである。わけが分からぬものを、陀羅尼と人は謗るが、わけが分って、さて、何が残るか、残りなく説きあかし得て、何を得るのか、知的に判断出来るものでは、底なしの深さがあるまい。言葉で割り切れぬものが陀羅尼である。もし、「茶」が深いものであり、深いものに茶を徹せしめるなら、説いて説き得ぬ一物があるはずである。この一物が茶の命なのである。この一物は、陀羅尼的性格を持つものである。分る分らぬ分別を越えるものである。そういう深みにあるものに向っては、「何か」という問いが、既に力が弱い。茶の中に問い尽せぬほどの意味を、見守るべきではないか。
(柳宗悦『南無阿弥陀仏 付 心偈』より)本紙、若干ヨゴレあり。