木村荘太/近代文学、哲学/掛け軸、絵画の買取 販売 鑑定/長良川画廊

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近代文学、哲学
P-011 木村荘太

P-011 木村荘太Kimura Souta

学びのこころ

 この書簡は伊藤野枝に一方的に恋心を募らせた木村荘太の書簡である。二人の交流は僅か一ヶ月にも満たないものであったが、木村荘太は、伊藤野枝の対し「拝啓 未知の私から手紙を差し上げる失礼を御許し下さい。」と書き出す最初の書簡から十一通の書簡を伊藤野枝に書いた。一方、伊藤野枝は木村荘太に対し四通の書簡を書いた。二人はその経緯を、木村荘太は『牽引』(『生活』生活編輯所)に、伊藤野枝は『動揺』(『青鞜』第三巻八号、定本伊藤野枝全集第一巻)に、それぞれが小説に託し書いている。『牽引』については、全文を掲載した。
 この書簡は、木村荘太が伊藤野枝に宛てた最後の一通である。

 木村荘太 1
 木村荘太 2 木村荘太 3 木村荘太 4 木村荘太 5 木村荘太 6 木村荘太 7
 木村荘太 8
 木村荘太 9 木村荘太 10
作家名
P-011 木村荘太きむら そうた
作品名
伊藤野枝宛書簡
価格
550,000円(税込)
作品詳細
原稿用紙7枚 封筒付き
用紙寸法46x25.6㎝
作家略歴

木村荘太
明治22年(1889)2月3日~昭和25年(1950)4月15日

東京市日本橋区吉川町両国広小路(現在の東京都中央区東日本橋)に生まれる。実業家木村荘平の庶子。弟に画家の木村荘八、異母弟に直木賞作家の木村荘十、映画監督の木村荘十二がいる。明治43年(1910)、第2次『新思潮』の創刊に参加。谷崎潤一郎と親しくする。大正2年(1913)、伊藤野枝との交流を題材にした『牽引』を『フュウザン』の後身の雑誌『生活』(3巻8号)に発表。大正7年(1918)、武者小路実篤の新しき村に参加。大正12年(1923)、関東大震災後、山形県酒田に移り、その後、千葉県印旛郡遠山村(現在の成田市大清水)で、晴耕雨読の生活を送る。昭和25年(1950)4月15日、自伝『魔の宴』の刊行直前に自死。著書に『農に生きる』、『林園賦』、『田園エッセイ』など、訳書に『ロマン・ロラン全集』、『英国衰亡史(ヴイヴイアン・グレイ)』、『アラン─その人と風土』、『民主主義展望(ウォルト・ホイットマン)』、『愛と罪(ロザマンド・グレイ)』など。

伊藤野枝
明治28年(1895)1月21日~大正12年(1923)9月16日

福岡県糸島郡今宿村大字(現在の福岡市西区今宿)に生まれる。戸籍名は「ノヱ」。明治42年(1909)14歳、周船寺高等小学校卒業。今宿郵便局に勤務するが、叔父代準介に女学校入学を懇願。翌43年、上野高等女学校(現在の上野学園高等学校)4年に1年飛び級で編入学する。この年、幸德秋水ら処刑される。明治44年(1911)16歳、後に夫となる辻潤が英語教師として赴任。明治45年(1912)17歳、上野高等女学校卒業。同年、郷里で親の決めた許婚と結婚をするが、9日目に婚家を出奔。上京し辻潤宅に身を寄せる。辻は上野高等女学校を辞職。9月頃、平塚らいてうを訪ね、10月、『青鞜』に社員として初めて名が載る。11月、「東の渚」(『青鞜』)発表。この頃から『青鞜』の編集を手伝うようになり、与謝野晶子、長谷川時雨、国木田治子、小金井喜美子、岡本かの子、尾竹紅吉、神近市子らと出会う。大正2年(1913)18歳、6月13日、木村荘太から恋文が届く。8月、木村荘太との交流の経緯を書いた「動揺」(『青鞜』)を発表。9月、エマ・ゴールドマンの「婦人解放の悲劇」(『青鞜』)を翻訳。一(まこと)出産。大正4年(1915)20歳、1月、『青鞜』の編集発行人を平塚らいてうから受け継ぐ。7月、辻と結婚。11月、流二出産。大正5年(1916)21歳、2月、大杉栄と恋愛関係に入る。『青鞜』終刊。4月、流二を連れて辻の家を出る。6月、流二を里子に出す。11月7日、大杉栄と恋愛相手であった神近市子が大杉栄を刺す。特別要視察人に編入され警察の尾行がつくようになる。大正6年(1917)22歳、9月、辻と協議離婚成立。魔子出産。大正8年(1919)24歳、10月、『労働新聞』創刊。婦人欄を担当。12月、ヱマ出産。大正10年26歳、3月、エマ出産。12月、「無政府の真実」(『労働新聞』)発表。大正11年(1922)27歳、6月、ルイズ出産。7月、日本共産党結成。大正12年(1923)28歳、6月、ネストル出産。9月1日、関東大震災。9月16日、大杉と大杉の妹橘あやめの子である宗一を連れて自宅へ帰宅途中、憲兵大尉甘粕正彦らに拘引され、その夜、麹町東京憲兵分隊において、大杉、宗一とともに虐殺される。

コンディション他

【書簡の書き入れ箇所について】

木村荘太の小説『牽引』に、以下の文章があり、

野枝氏は僕から行つた手紙をそこへ持つて来てゐた。僕がこの事を書くからといつて頼 んで置いたのである。僕はその手紙を受け取つて野枝氏のと一つにした。
その時辻氏が、お前も自分のを頂いて行つたらよからう。」と野枝氏にいつた。
「いえ、僕のは僕が頂いた手紙ですから御返しは出来ません。野枝さんからはこれは拝借 するのです。いけないとおつしゃれば自分の手紙は思ひ出しても書きますが、もしかさう して嘘になるより拝借したいと思ふのです。」
「あ、さうですか。ではもしまたこちらでも入用があつたらそれを拝借するかも知れませ ん。」
「ええ、ええ。」
と僕はいつた。

伊藤野枝に送った書簡は、木村荘太の手元にあり、『牽引』を書くさいに、書簡原本に買い入れをし、修正したと思われる。尚、書き入れ部分については「赤字」に、塗りつぶし部分は■を印した。

【書簡全文】
拝啓 私は昂奮し激動しつつ書いた手紙にこの事を終らせたくないと思ひますから今静かな気持でもう一度あなたに宛ててこの紙を展べさせて頂きます。
この数日間私は実によく生きました。御手紙で拝見しますとあなたも随分苦しまれたやうですが私も苦しみました。実は遺りかけてゐる仕事 - 食ふための無味な仕事 - を昨日までに終つてそれからゆつくり御会ひしたく思つてゐたのでしたが、ああいふ譯で私は徹夜の労れと、その労れから来た熱との間で、指が痛くなるほど、遅らしてあつた仕事と闘ひながら凡てあれらの手紙をあなたに書いたのでした 今日の御手紙を頂いた時も私は仕事をしてゐました、直ぐ御返事を書いてその辺を一廻りして帰ると私の頭は割れるやうでした、私は仕事を放■しました。もう今月は遣らない事にしてしまひました。さうして電気をつけずにだんだん暗くなつてゆく中でジイッとしてゐました。今この時間は私が自分のものとして、ほんとに自分を生かし得る時間だと思ふと、私は不思議な慰楽に労れた心を撫でさすられる思ひがしました。それから電気をつけて私はまたあなたの御手紙を繰り返しました。それからある尊敬する友達に宛ててかういふ葉書を書きました。
「恋が終つた。ロストに終つた。この数日間僕は随分よく生きた。毎日手紙を書きつづけた。それで今日その返事が来た。その返事で以て僕の運命が定つた。がしかし僕は大き
なものを得た。僕は女の真実を得た。
 僕はちッとも今苦しくはない。といふのは嘘であるかも知れない。苦しい苦しい。けれども僕にはその苦しさを蔽ふ力と明るさがある。僕の心の底の底には凡てのものを癒す敬虔な真実な涙がある。僕は今自身に実にいい生き方の出来るのを感謝してゐる。」
 今これを書いてゐる■時、窓の外には眞黒な八つ手の葉の上を風が渡つてその快い風が私を蘇らすやうにして頬に触れます。さう■です。私は蘇へる思ひです。あなたと、あなたの方と、それから私と、この三人の関係が今私にはハッキリと解るのです。■今の私の気持は前便の手紙を書いた私とはかなり違つてゐます。私のあなたに懐いたラヴはもう消えました。この数日間あはただしい激越な短命な生き方をしたそのラヴはもう終りました。それといふの■私はそれを尚生かすより、このまま消えてゆかした方が、更によりよく自分を生かし得る道である■事を悟つたから■■です。私はアルトイ■ズムとイゴイズムとが完全に一致する事を信■じてゐる一人です。ある友達が言つた通りにさういふ■思想が世界の基督以来の最大な思想であるのを信じようとする一人です。この信念が今私には自身のラヴを終らしめよと命ずるのです。私はこの自分ほど自己に対して恭敬なものはあるまいと信じてゐます。

 ■私は前の手紙であなたにある不安を残しはしなかつたかと今掛念します。物を慎重に言はなかつたのを後悔します。私は今はあなたに対して静かな尊敬と友情の外何物も感じてはをりません。ラヴからかういふ友情へ、私の心はこの数時間のうちに至極自然な推移をしました。特にこの事は申して置きます。それは不自然なセルフサクリファイスのためでもなんでもありません。少しもフオ■スドされたものではありません。
 私のためにはかうしてあなたを知つたのは、前とは違つた意味に於ての喜びです。あなたと私とふたりはいい道を通りました。また御会ひしてこの友情を続ける機会も、至極自然に近くに来るような気がしてゐます。なんにも故意に避けてはいけないと思ひます ―自分自身をさへ信じてゐれば。 御手紙の模様で拝見しまして、あなた近い過去に就いては読む私も苦しいやうな同情を懐きました。あなたはこれからも随分艱難な道を進んでゆかれる事であらうと想像されます。私も過去には暗い艱難の道を通つてここまで辿り着いたものです。これから先にも尚と一層の艱苦を想望してゐるものです。お互ひに未来と自己とを信ずる力を失ひたくないと思ひます。
しみじみとして底から力の湧くのが感じられる晩です。この苦しい、併しいい人類の生活を祝福させずには措かれな■いやうな力が■■心の底から湧き上つて来るのを感じさせる晩です。私はかういふ力を凡ての人類が感じる時は、何れ確かに来る事を信じてゐます。その時地上は幸福に充ちて、世界が光り輝きます。私はそれを望する時、心に涙が湧き上ります。私はさういふ世界の来る事を早めるために、十字架を背負つて生きた■としてゐます。
 随分いろいろの事をあなたには申しました。私はあなたが深い理解と同情で私を遇して下さると言はれた言葉を力強く思つてゐます。私はこの短いあなたとのラヴに生き得た自己を決して不幸だとは思ひません。― 特にあの最後の原稿紙に書かれた御手紙に接する事を得た私は。私は自分を祝福します。凡てのものを祝福します。今自分が幸福ですから、凡ての人を幸福であらせたく思ひます。切にあなたを幸福であらせたく思ひます。あなたが幸福でなければ自分も幸福になり得ないのを感じます。これは安價なオオルド・ファッションド・センチメント■■■■■■■■ではありません。凡ての人類に対して私が今懐く愛です。唯一の私の斎く眞善美の源の力です。
 いつまで書いても限りはなささうに思はれますからこれで筆を擱きます。
あなたは何より■■自分で自分を信じさせる力を■■■私に試させて下さいました。私はあなたに御会ひしたため、血から肉から自分が一層純に新たになつたのを感じます。私はこれからまた更に新らしい人生の■に上らうと思ひます。
 生田氏の事に就いては同感です。今の日本の文壇の人達は大概下らないモツブです。僕等の仕事は多くの日本の文士や友達の下らなさに愛相を尽してゐる事が第一の出発点です。もうこのごろでは今の僕等の同人以外の二三人を除いては目にすらも這入つて来ません。さういふ反感を懐く事さへ馬鹿しくなつてゐます。僕等の仕事は大変な仕事です。精神的の日本を作り上げる事です。日本を世界的にする事です。さうして人類を生かす事です。僕等が一生懸つて出来るか出来ないか知れない事です。けれども自己を真実■生かせば、必ず出来るといふ事を信じて、そのために全力を挙げようとしてゐるのです。僕等はみんな悲壮な感を懐いてゐます。みんな殺気を含んでゐます。歴々として戦ひの勝算を数へてゐます。
 あなたもシッカリ周囲を見定めて御ゐでになる事を祈ります。
 あなたの方に対する手紙を同封します。それには凡ての経過をあなたがその方に御話し下すつた事を豫想した上で書きます。
 ではこれで失礼します。
二十六日半
木村 荘太

伊藤野枝様

【封筒】 (表)消印・大正2年6月27日  市外上駒込染井三二九 辻様方 伊藤野枝様 (裏) 二十七日午後 麹町区平河町六丁め一 福竹館

【後記】
 私はこの書簡に出会うことによって、伊藤野枝の言葉に触れる機会を得た。そして、大杉栄、大杉の甥橘宗一とともに憲兵隊に虐殺されたアナキストとして語られる伊藤野枝ではない、幼気で、愛らしく、健気で、素直で、誠実に、正直に、強く生きようとした真実の伊藤野枝を知った。社会運動、政治運動、労働運動が盛り上がる大正デモクラシーと呼ばれる時代にあって、伊藤野枝という人間が、社会のさまざまな不当に立ち向かおうとすることは、当然であり宿命であったと思う。一方で、今の社会に伊藤野枝に関心を持ち共感する人がどれだけいるだろう。コロナ社会において、私たちの社会に露呈したものは、根拠のない流言飛語によって、多くの朝鮮人が殺された関東大震災直後の混乱した社会状況とどこが違うのか。社会全体の利益のためだとマスクやワクチンを強要した人々の論理は、伊藤野枝らを殺した甘粕以下権力者の大義とはどこが違うのか。私たちは、とても伊藤野枝のように社会に向って真摯に生きられないとしても、せめて、「私は人間が同じ人間に対して特別な圧迫を加えたり不都合をするのを黙って見てはいられないのです」という伊藤野枝の姿を尊いと感じることである。他人の様子をうかがい、自ら考え判断することのない蒙昧無知な自身の振る舞いを、伊藤野枝を前にして恥じるべきである。
 私たちが、伊藤野枝について、あるいは大逆事件など国家権力による思想弾圧事件について考えるということは、明治維新以降、敗戦から今にいたる日本人の精神の営みとして歴史を考えることであり、それは、同時に、今の私たちの社会を考えることである。伊藤野枝は、僅か二十八歳で殺されたのだ。私たち一人一人が、社会への問題意識を持って、少しでも真摯に生きることが、伊藤野枝の死に花をたむけることになるのだと思う。

 余談であるが、太宰治とともに亡くなった山崎富栄も伊藤野枝と同じ二十八歳の生涯であった。二人の生涯は、苦難に満ち、穏やかといえるものではなかったが、精一杯、誠実に生き抜いた生涯は、ともに誇らしく、美しい生涯であったと思う。

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