草刈樵谷
明治25年(1892)~平成5年(1993)
大分県竹田市に生まれる。本名、辰生。初め郷土の佐久間竹浦に、のち京都の出て田近竹邨に学ぶ。主に日本南画院で活躍。昭和17年(1942)、第5回新文展に「奔瀬図」入選。戦後は、郷里の戻り、竹田荘の経営管理に従事し、その保存に尽くした。田能村竹田研究の第一人者としても知られる。竹田市名誉市民。
【翻刻文】
邨塾何嫌陋 朋来多俊英 齋言連楚語 墨行雑儒名 洗硯渠流暗 繙書林火明 田夫停不去
似愛誦絃聲 廣瀬 簡
【読み下し文】
邨塾何ぞ陋を嫌はん 朋来たりて俊英多し 齋言楚語を連ね 墨行儒名雑じる 硯を洗えば渠流は暗く 書を繙けば林火明るし 田夫停まりて去らず 絃聲誦するを愛するに似たり
【現代語訳】
村の学塾が狭苦しい事など苦にはならない
あちこちから学問の朋が集まり、俊英も多い
声を揃えて四書を素読し
筆を執るのも儒教の書物
塾生達が硯を洗うと小溝は真っ黒になってしまい
書物を夜遅くまで読んでいるので、林の中でここだけが明るい
いなか者達だがなかなか帰ろうともせず
弦歌の巷に入り浸るようにここでは皆学問を愛している
本紙に、若干ヤケ、小折れあり。