河上徹太郎/近代文学、哲学/掛け軸、絵画の買取 販売 鑑定/長良川画廊

トップページ
近代文学、哲学
C-138 河上徹太郎

C-138 河上徹太郎
Kawakami Tetsutaro

 河上徹太郎 1
 河上徹太郎 2
作家名
C-138 河上徹太郎 かわかみ てつたろう
作品名
心貧しき者ひとり新しき道を拓く
価格
120,000円(税込)
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 紙裂 合箱
本紙寸法30.8×24.5
全体寸法45.2(胴幅)×55㎝
作家略歴

河上徹太郎
明治35年(1902)~昭和55年(1980)

長崎市に生まれる。父は、日本郵船の技師。母は、プロテスタント。大正3年(1914)、県立神戸第一中学校入学。同窓に今日出海、白洲次郎がいた。大正5年 (1916)、父の転任にともない、東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に転入。同窓に富永太郎、村井康男、蔵原惟人、浅野晃がおり、1年下には小林秀雄がいた。大正8年(1919)、第一高等学校文科甲類に入学。同級に池谷信三郎、村山知義がいた。三塁手として野球部に在籍していた。大正9年(1920)、9月、2年に進級せず、病弱を理由に休学。この頃から、デンマーク人ジョージ・ロランジにピアノを師事する。大正12年(1923)、東京帝国大学経済学部入学。大正13年 (1924)、音楽評論家、門馬直衛の推薦で、「月刊樂譜」に音楽評論「音樂上に於ける作品美と演奏美」を発表。大正15年(1926)、東京帝国大学経済学部卒業。昭和2年(1927)、中原中也を知る。昭和4年(1929)、中原中也、村井康男、大岡昇平らと同人雑誌「白痴群」を創刊。昭和7年(1932)、「文藝春秋」の月評欄を担当。
第一評論集「自然と純粹」(芝書店)刊行。昭和10年(1935) 、ポール・ヴェルレーヌの「叡智」(芝書店)訳出刊行。昭和13年(1938)、第一音楽評論集「音樂と文化」(創元選書)刊行。昭和14年(1939)、評論集「事實の世紀」(創元社)刊行。昭和15年(1940)、評論集「道德と敎養」(実業之日本社)刊行(青山二郎装幀)。昭和16年(1941)、パウル・ベッカー「西洋音樂史」(創元社)訳出刊行。評論集「文學的人性論」(実業之日本社)刊行。文芸銃後運動講演班として、新居格、小林秀雄、林芙美子、松井翠声とともに1カ月間朝鮮旅行。昭和20年(1945)、空襲で自宅焼失、白洲次郎邸に寄寓。昭和22年(1947)、評論集「戰後の虚實」(文学界社)刊行。昭和23年(1948)、シャルル・ボードレール「赤裸の心」(角川書店)訳出刊行。昭和29年(1954)、「私の詩と眞實」(新潮社)より第5回読売文学賞(評論部門)受賞。随想集「わが旅わが友」(人文書院)刊行。昭和34年(1959)、「日本のアウトサイダー」(中央公論社)刊行。昭和35年(1960)、評論集「異端と正統」(文芸春秋新社)刊行。昭和36年(1961)、日本芸術院賞受賞。昭和37年(1962)、「わがデカダンス」(新潮社)刊行。日本芸術院会員になる。昭和38年(1963)、音楽評論集「私の音樂随想」(垂水書房)刊行。昭和39年(1964)、評論集「批評の自由」(垂水書房)刊行。昭和43年(1968)、「吉田松陰 武と儒による人間像」(文芸春秋)刊行。同作品により野間文芸賞受賞。昭和45年(1970)、「有愁日記」(新潮社)刊行。同作品により日本文学大賞受賞。昭和47年(1972)、銀座の帰途、酔って警視庁鳥居坂保護所に保護され、随筆「わがトラ箱記」を「文藝春秋」書く。文化功労者になる。岩国市名誉市民になる。昭和48年(1973)、「吉田松陰の手紙」(潮出版社)刊行。昭和50年(1975)、「愁ひ顔のさむらひたち」(文芸春秋社)刊行。昭和52年(1977)、「歴史の跫音」(新潮社)刊行。昭和53年(1978)、「わが小林秀雄」(昭和出版)刊行。昭和54年(1979)7月、小林秀雄との最後の対談(歴史について)を行う。9月、肺癌により北里病院に入院。昭和55年(1980)9月22日、国立がんセンターにて死去。10月7日、東京カテドラル教会で井上洋治神父司宰によりカトリック葬(葬儀委員長小林秀雄)。

コンディション他

裂に折れ、本紙に若干のヨゴレあり。