祐天
寛永14年(1637)~享保3年(1718)
陸奥国岩城郡新倉村あるいは新田村に生まれる。字は愚心、号は明蓮社顕誉。12歳で増上寺檀通上人の弟子となるが、経文が覚えられず破門され、成田山新勝寺の修法道場に参籠。不動尊から剣を喉に刺し込まれる夢を見て智慧を授かったという。その後、諸国を遊歴して人々を教化、名利を求めることなく念仏布教に専念。下総生実大巌寺、常陸飯沼弘経寺、江戸小石川伝通院に歴住。正徳元年(1711)、増上寺36世法主となり、5代将軍綱吉、6代将軍家宣の帰依を受けた。
祐天は、弘経寺に在住していた時、羽生村(現在の茨城県常総市水海道羽生町)の累という女の怨霊を成仏させたという奇譚により、説話『死霊解脱物語聞書』が書かれ、それを元に書かれた曲亭馬琴の読本『新累解脱物語』、三遊亭円朝の怪談『真景累ヶ淵』などにより、祐天の除霊伝説が生まれた。
本紙全体に小折、ヤケ。