近現代中国の画家、政治家、学者などの鑑定と買い取りについて/掛軸、絵画の販売、鑑定、買取り/長良川画廊

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近現代中国の画家、政治家、学者などの鑑定と買い取りについて

近現代中国の画家、政治家、学者などの鑑定と買い取りについて

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代表的中国人名家(画家、文学者、政治家、学者など)

呉昌碩 ごしょうせき(1844~1927)
詩、書、画、篆刻ともに秀で、清朝最後を飾る文人画家と称えられる
浙江省安吉県で生まれる。諱は、俊卿。字は、昌碩。号は、蒼石、缶廬(フロ)、老缶、苦鉄、大聾など。17歳のとき、大平天国の乱により、母、弟妹、許婚を失い、5年間、湖北、安徽を流亡する。29歳頃より、書を楊峴に、文学を兪越に学び、呉雲、呉大澂など江南の学者、文人の知遇を得て金石学をきわめ、特に石鼓文の研究で成果をあげる。自らは、「三十で詩を学び、五十で画を学ぶ」というが、その画は、30余歳で任伯年を知った時にはじまる。1894年、53歳の時、江蘇省安東県の知県(知事)になるが、僅か一ヶ月で辞し、「一月安東令」の印を刻す。
斉白石 せいはくせき(1864~1957)
「南の呉(昌碩)、北の斉(白石)」と称される、近代中国画の巨匠
湖南省湘潭県の貧農に生まれる。諱は、璜。字は、萍。号は、白石、楼城、寄萍、借山翁、木人、三百石印富翁・寄萍堂主人、借山吟館主者、杏子塢老民など。13歳で木匠(指物師)に弟子入り。27歳の時、胡沁園より画を学び、陳少潘を拝して詩文を学ぶ。43歳の時に趙之謙の「二金蝶堂印譜」を得て臨模。55歳頃より、北京に生活の主体をおき、高名な文人墨客と多く交わる。1927年、林風眠に招かれ、国立北京芸術専科学校教授となる。解放後、同学名誉教授、中国美術協会主席、中央美術学院名誉教授などを歴任。自らを評し、「わが詩第一、印これに次ぎ、書これに次ぎ、画これに次ぐ」と言う。
王震 おうしん (王一亭 おういってい)(1867~1938)
呉昌碩歿後、上海の美術界の中心人物として活躍
浙江省呉県で生まれる。字は一亭。号は、白龍山人、梅花館主、海雲楼主。40歳以上は、白龍山人と号した。幼年より苦学し、徐小倉の門下となる。任伯年の影響を深く受ける。上海の著名な海運関係の実業家であり、日本の政治家、実業家との親交が厚かった。仏教を篤信し、花卉、山水をはじめ、観音や道釈画を得意とし、書は行書に秀でる。
林風眠 りんふうみん(1900~1991)
中国画と西洋画の融合を目指し、生涯を中国絵画芸術の革新運動に尽くす
広東省梅県の山奥の農家に生まれる。祖父と父親は墓石を彫る石職人。1918年、中学を卒業して上海に出た林風眠は、勤工倹学団に参加し、フランスに渡る。1925年、パリ国立美術学院卒業。1925年、国立北京芸術専門学校の校長兼教授に就任。1928年、杭州国立芸術院を設立し、初代院長兼教授となる。以後、中国美術家協会上海分会副主席などを務めるが、文化大革命により、掠奪、批判を受け、1968年から1972年、周恩来により釈放されるまで投獄される。
1977年、香港に移住。 中国画と西洋画の融合を目指し、生涯を中国絵画芸術の革新運動に尽くす。
黄賓虹 こうひんこう(1865~1955)
中国現代絵画の先駆者の一人
浙江省金華県に生まれる。字は、樸存。号は、予向、虹廬、虹叟、黄山山人、黄賓山人、中年以降は賓虹と称した。11歳で「飛鴻堂印譜」に倣って篆刻を学ぶ。鄭珊に山水を、陳崇光に花鳥を学び、同時に康有為、梁啓超の維新思想の影響を受ける。1906年、新安中学堂で国文を教え、友人とともに「黄社」を組織し、反清を志す。1907年、清朝政府の追及を受け上海に逃亡、商務印書館、有正書局などで働いた後、国立曁南大学芸術学部教授、杭州国立芸専教授、国立北京師範学院講師などを歴任。1949年、中国美術家協会華東分会の副主席、中央美術学院華東分院教授となる。 中国現代絵画の先駆者の一人。
康有為 こうゆうい(1858~1927)
中国近代を代表する思想家、政治家。書家としても著名
広東省南海に生まれる。字は広厦。号は、長素、のちに更生(更甡)、出身地から康南海とも呼ばれる。幼年期より、学問に優れ、はじめ朱次琦に儒学を学ぶ。後に、廖平の著書『今古学攷』、『知聖篇』に接し、公羊学(くようがく)から大きな影響を受ける。1895年、科挙に合格後、日本への徹底抗戦を上奏(公車上書)。立憲政治運動、変法自強運動を進め、光緒帝に用いられて中国近代化の先駆者として大きな役割を果たした。袁世凱の裏切りによる西太后ら守旧派のクーデターにより日本に亡命する。中華民国成立後帰国し、宣統帝の復辟運動に参加したものの失敗、国民革命軍に追われ、青島で病没する。
郭沫若 かくまつじゃく(1892~1978)
毛沢東政権中枢に身を置いた、中国の近代文学、歴史学の先駆者
四川省楽山市に生まれる。諱は、開貞。字は、鼎堂。1914年、日本に留学。第一高等学校予科で日本語を学び、岡山の第六高等学校を経て、1917年、佐藤をとみと結婚。1918年、九州帝大医学部に入学。この頃より詩作を始める。
1921年、上海で文学団体「創造社」の設立に参加。その後、国民党に参加し、、北伐軍の総政治部主任となるが、蒋介石と対立し、1928年、日本へ亡命する。上海当時の知人村松梢風の紹介で市川市須和田に居を構える。1937年、盧溝橋事件の勃発により、家族と離れ中国に帰国。新中国誕生後は、政務院副総理、中国科学院院長、全人代常務副委員長、中日友好協会名誉会長など歴任する。
梁啓超 りょうけいちょう(1873~1895)
近代中国を代表する啓蒙思想家でジャーナリスト
広東省広州に生まれる。字は卓如、号は任公、飲冰室主人など。中国之新民他多数のペンネームをもつ。1890年、若干17歳にして科挙第一段階の試験である郷試に合格。康有為に傾倒し、『公羊伝』『資治通鑑』などを学ぶ。康有為とともに、下関条約の締結拒否の上申書を皇帝に上奏。政治結社「強学会」を組織する。1898年、百日維新に敗れて日本に亡命、横浜で『清議報』『新民叢報』などを創刊し、旺盛な言論活動を展開した。
于右任 うゆうにん(1879~1964)
中華民国(台湾)を代表する政治家であり書家。
陳西省三原県東関に生まれる。名は伯循。字は右任。号に、神州旧主、騒心、大風、剥果、太平老人など。1903年、郷試に合格。1904年、『半哭半笑楼詩集』の発刊により清朝政府の指名手配を受け、上海に亡命。馬相伯の震旦学院に入り、学友とともに復旦公学(後の復旦大学)を創設する。1905年、日本に留学し、孫文の中国同盟会に入会。帰国後、『神州日報』『民立報』などで清朝批判を展開、辛亥革命に大きな影響を与える。1912年(民国元年)1月、中華民国臨時政府の交通部次長に就任。1913年、袁世凱打倒(二次革命)に失敗。1918年、靖国軍総司令に就任。1922年、葉楚?とともに国立上海大学を創設、校長に就任する。1925年、中華民国国民党中央執行委員に就任。孫文死後、国民党右派の指導者として活躍し、1949年、国民政府に従い台湾へ渡る。1958年、日中文化交流書法展覧会名誉会長に就任。1986年、北京の革命博物舘で、于右任書法原作展覧会開催。1999年、京都文化博物館で、「于右任書展」開催。
啓功 けいこう(1912~2005)
現代書道界の重鎮
北京に生まれる。字は、元伯。姓は、愛新覚羅。中国書法家協会主席、北京師範大学教授などを歴任。
亞明 あめい(1924~2002)
中国現代絵画を代表する画家の一人
安黴省合肥県の貧窮の家に生まれる。抗日部隊「新四軍」に参加。
1941年、准南芸専に入学。1957年、江蘇省国画院の副院長に就任。1960年、傅抱石と共に江蘇国画工作団を13人を率い中国六省二万三千里を巡り写生し、翌年、北京において「山河新貌」展を開催し注目を浴びる。1963年、『亞明作品選集』出版。中国美術家協会常務理事、南京大学教授を歴任。
于希寧 うきねい(1913~2007)
中国現代絵画を代表する画家の一人
山東省濰坊に生まれる。字は、希寧。号は、平壽外史、魯根。
1936年、上海新華芸術学校を卒業。黄賓虹、潘天寿、諸楽三らに画を学び、兪劍華に画史、画論を学ぶ。1950年、山東師範学院芸術系副教授を皮切りに、一貫して美術教育に従事する。 中国美術家協会理事、山東芸術学院名誉院長兼教授など歴任。
王個簃 おうこい(1897~1988)
呉昌碩の精髄を受け継いだ、呉昌碩の愛弟子
江蘇省海門に生まれる。諱は、賢。字は、啓之。別号は、霜茶閣。若年より詩文、金石、書画を好む。27歳の時、諸貞壮の紹介で呉昌碩に入門。1928年、新華芸術専科学校教授。1930年、昌明芸専教授。他に、中国美術家協会理事、上海中国画院名誉院長などを歴任。
王雪濤 おうせっとう(1903~1982)
清新秀麗な花鳥画で独自な画境をひらく
河北省安県に生まれる。別号は、遅園。1918年、直隷高等師範図画班に入り、卒業後、小中学校で教師を務める。1922年、国立北京芸術専科学校に入る。初めは西画系、後に国画系に移り、王震(王一亭)の影響を強く受ける。中国美術家協会理事、北京画院院長などを歴任。
應野平 おうやへい(1910~1990)
中国現代絵画を代表する画家の一人
浙江省寧海に生まれる。兄が潘天寿の友人で、その薫陶を受ける。多くは独学であったが、密蜂画社、海上題襟館などに参加し技芸を磨く。1941年、新華芸術専科学校教授。1950年、陳秋草、陳大羽らと新国画研究会を設立。1983年、上海大学美術学院教授。中国美術家協会上海分会名誉理事、中国書法家協会上海分会名誉理事などを歴任。
賀天健 がてんけん(1891~1974)
石濤、八大山人の筆意を受け継ぎ、情趣溢れる山水画を描く
江蘇無錫に生まれる。字は、健叟。8歳で画と書を学びはじめる。画はおもに沈石田、文徴明などの山水を、書は、漢碑、魏碑、隋碑をもとに、虞世南、李北海などの字帖を学ぶ。1918年、「題襟館書画会」に参加。1920年、無錫で友人たちと「錫山書画会を結成し、翌年、無錫美術専門学校を創設する。また、南京美専、上海美専、昌明美専の国画教授を務める。1923年、中国画会主任委員となり、「書畫月刊」「國畫月刊」の編集を手掛ける。中国美術家協会理事、上海美術協会副主席など歴任。

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