広瀬惟然
慶安元年(1648)~宝永8年(1711)
美濃国関(現在の岐阜県関市)の造り酒屋岩本屋に生まれ。通称、源之丞。別号、素牛、鳥落人、風羅堂、湖南人、梅花仏など。14歳の頃、名古屋の裕福な商家の養子となるが、貞享3年(1686)39歳の頃に出家。関に「弁慶庵」を結ぶ。松尾芭蕉が岐阜を訪れた際、門下となる。芭蕉没後、芭蕉の句を和讃に仕立てて風羅念仏と称し、これを唱えながら諸国を乞食同然の姿で追善行脚した。
窪田猿雖
万治2年(1640)~宝永元年(1704)
伊賀上野の人。本名は窪田惣七郎。別号に意専。芭蕉の信頼厚く、伊賀蕉門最古参の一人。
中島秋擧
安永2年(1773)~文政9年(1826)
三河国碧海郡熊村(現在の愛知県刈谷市)に刈谷藩藩士、町奉行を務めた中島佐守の長男として生まれる。名は惟一。字は子徳。号に曙庵など。享和2年(1802)、30歳の時に致仕し、隠居後、剃髪して井上士朗に入門。文化8年(1811)、『惟然坊句集』を刊行。
春日花叔
安永3年(1774)~文政7年(1824)
出雲国古志村(現在の島根県出雲市)の神職。名は盈重。別号に橘隠老人。井上士朗の門人。
【翻刻文】
尚々御無事の段承りたく奉存候、爰もと折々の會にて風流のみに候、以上先月ははじめて罷越、ゆるゆる得貴意、大慶に奉存候、色々預御馳走、御懇意の御事ども忝奉存候、翁彌御無異にて奈良一宿仕、重陽の日に大坂着仕候、
翁
菊に出て奈良と難波は宵月夜
此御句にて會など御坐候、其元彌御無事に被成御坐候哉、御句など少々承たく候、先日奈良越にて、
近付きになりて別るる案山子かな
錢百のちがひが出来た奈良の菊
右兩句いたし申候、御聞可被下候、土芳丈望翠丈どれどれ様へも可然様に御心得被成可被下候、如何様ふと罷越、萬々可得貴意候、京都にて高倉通松原上ルつづらや町笠屋仁兵衛店にて素牛と御尋被下候へば相知れ申候、何時にても風流の御宿可申上候、恐惶謹言
九月二十二日 惟然
意専老人
広瀬惟然の真筆と推定できる極めて希少な直筆書簡。