花は松葉牡丹、蛍草、のうせんはらん、
昼顔、朝顔、ひまわり、夕顔、唐瓜、
黄瓜、茄子、ささげ豆、紫陽花、山萩、
夏菊、露菊
実は林檎、桃、李、あんず、
梢には松虫、日ぐらし、鈴虫、
田のものは蛙、
空は白雲、雨雲、横雲、白雨、虹、
天の河、
あけぼのは残月、朝霧、犬、鶏、
ゆふぐれは旅の鳥、蚊、水車の音、
雨の日は荷馬、
晴れたる日は村はづれの水車、
山は浅間山、
川は千曲川、
野菜は茄子、山茄子、ねぎ、黄瓜、夕顔
隠元、唐瓜、茗荷、
魚はハヤ、鯉、塩鮭、塩しび、塩いか、
塩くじら、なまりぶし、
旅の者は薬賣、種物賣、教師、
雨三日前には上田、長野あたり迄旅
に出かけ戸隠山へ登○○○なりしかと
果たさず
明日は○○のものありて浅間○嶽を楽
み居候
以下は、『浅間山と千曲川と小諸―「千曲川のスケッチ」による』(林勇編著)から。
島崎藤村は明治三十二年に小諸義塾という私立中学の教師として小諸へ来た。そして、京師をする傍ら文業にはげみ、詩から散文へ移ったのだが、何といっても有名なのは、あの「千曲川旅情の歌」である。この詩は最初は単に「旅情」と題したものであるが、後に「小諸なる古城のほとり」と変え、詩碑には再び変更して「千曲川旅情のうた」として揮毫したものである。
藤村は、「浅間山」について纏まったものは何も遺していない。が、千曲川については、「千曲川スケッチ」という観察記録を遺している。しかし、これは古来の文人墨客の詠んだような漢詩や和歌でなく、千曲川沿岸の自然、人情、風俗、特に農民の生活にその鋭い観察眼を向けたものである。一言にして言えば、文人としての藤村独持の着眼であり観察である。そればかりではない。その範囲は千曲川の上流から下流に及び、南佐久郡の渓谷から船の通う飯山にまでわたっている。そして、それが、また、藤村の散文への出発であったところに格別な意味がある。
だが、藤村には、小諸へ来たばかりの頃、試みに書いてみたという歳時記風の観察がある。その中に
山は 浅間山
川は 千曲川
旅のものは 教師
という箇所がある。これでみると、東信の風景の骨骼は浅間山と千曲川であり、その自然の中に自分を見出したものと受取れる。藤村が後になって、懐古して
実際私が小諸に行って、餓え渇いた旅人のやうに、山を望んだ朝から、あの白雪の残 った遠い
山山―浅間、牙歯のやうな山続き、陰影の多い谷谷、古い崩壊の跡、それから淡い煙 のやうな山巓の雲の群、すべてそれらのものが朝の光を帯びて私の眼に映った時から、 私はもう以前の自分でないような気がした。
と書いている。この一文は当時の詩人藤村の気持ちを言い表したものであろう。
本紙、若干ヨゴレあり。