山本梅逸 Yamamoto Baiitsu
天明3年(1783)~安政3年(1856)
名古屋天道町(大須)に彫刻を業とする山本有右衛門の長男として生まれる。本名、亮。幼名、卯年吉。初号、春園、葵園。幼少の頃、母より和歌の手ほどきを受ける。寛政6年(1794)、父が亡くなると彫刻工ではなく画家として身を立てることを決意し、当時名古屋の文化人たちのパトロンであった神谷天遊の庇護のもと画の修業に励む。初め南蘋派の山田宮常、浮世絵の山本蘭亭、四条派の張月樵のいずれかに絵を学んだといわれ、張月樵説が有力とされるが定かではない。一説では、山本梅逸に絵の最初の手ほどきをしたのも、神谷天遊にを引き合わせたのも中林竹洞だともいい、梅逸より7歳年長の中林竹洞は、生涯に渡り最も大きな影響を梅逸に与える。享和元年(1801)、神谷天遊が没し、翌享和2年春、中林竹桐とともに上洛、多くの名画を模写するなど画業を研鑽するも、翌享3年8月には中林竹洞とともに帰郷する。その後、名古屋を起点に全国各地の文人と交わり、天保元年(1830)には「文豹図」を藩侯に献上するなど名古屋画壇での地位を固める。天保2年(1831)秋から天3年(1832)に掛けて再び京都に移住、当時京都を席巻していた四条派の影響を受けながら、写実性と装飾性の調和した独自な画風で高い評価を得て、嘉永5年(1852)、「平安人物志」の文人画部門で中林竹洞、小田海僊に続いて3位に記載される。また、梅逸は笛の名手としても知られ、楽の部にその名を記載される。嘉永6年(1853)、中林竹洞没して間もなく、安政元年(1854)、名古屋へ戻る。安政3年(1856)、74歳で没。江戸時代後期を代表する画家の一人。
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