頼山陽 Rai Sanyo(Rai Sanyou)

安永9年(1780)~天保3年(1832)

大坂江戸堀北一丁目(大阪市西区江戸堀)にあった父、頼春水の私塾「春水南軒」で生まれる。名、襄。字、子成。通称、久太郎。別号、三十六峰外史。父春水は広島藩儒。幼年期、父春水が江戸在勤で留守がちだったため叔父の儒者頼杏坪や母梅シから詩文を学ぶ。幼き頃からその才能は目覚ましく、7歳の時父春水が江戸より帰郷すると聞き郊外の村まで下女に連れら迎えに出る。ところがいくら待っても父の姿はなく、父かと思った人影も麦を担いだ農夫であった。山陽は帰宅し母に向かって「家君不返唯麦帰(家君返らず、ただ麦帰る)」と紙に書き示した。また、14歳の正月を迎え「千載 青史に列ならん」という有名な五言古詩、癸丑歳偶作*を作る。そして、19歳(現在の17歳)で幕末の志士が暗唱したという「蒙古来」*の詩を作る。寛政9年(1797)、江戸の昌平黌(幕府最高の官府)に遊学。翌年帰国。寛政11年(1799)、広島藩医、御園道英の娘淳子と結婚。寛政12年(1800)、突如脱藩を企て上洛するが、京の放蕩仲間、福井新九郎(後の典医・福井晋)の家で発見され、広島の自宅の一室(現在の「頼山陽居室」)に幽閉される。この事件によって廃嫡となり従弟の景譲(叔父春風の子)の養子となる。翌享和元年(1801)、妻淳子とは藩法によって離縁、同年に生まれた長男聿庵は頼家に引き取られる。幽閉生活3年、続いて謹慎2年の間、文筆活動に専念し歴史書『日本外史』や『新策』の初稿を完成させる。文化6年、父春水の親友であった儒学者の菅茶山に神辺(広島県深安郡神辺町)の郷塾(黄葉夕陽村舎)の都講(塾頭)として迎えられる。菅茶山に塾の後継者として期待されるが、学者として名声を天下に轟かせたいとの思いから、文化8年(1811)、京に向かう。同年、京都新町通丸太町で開塾。大坂の儒学者、篠崎三島、息子の篠崎小竹、京都の蘭方医小石元瑞らと交流し、翌文化9年(1812)、『日本外史』の論賛を起稿する。翌文化10年(1813)、美濃大垣に蘭医江馬蘭斎を訪ね蘭斎の娘江馬細香に出会う。文化11年(1814)、小石元瑞の養女梨影と再婚、その後三男一女(辰蔵・支峯・三樹三郎・陽子)が生まれる。文化13年(1816)、父春水没。文政元年(1818)、九州旅行に出発し、豊後の広瀬淡窓、田能村竹田ら学者、文人を訪ねる。この九州旅行の途中、熊本への海路、天草洋でシケに遭って島原半島の西岸に漂着、有名な天草洋(あまくさなだ)の古詩*が生まれる。文政5年(1822)、東三本木丸太町に転居、水西荘と名づける。文政9年(1826)、『日本外史』22巻*を完成。翌、文政10年(1827)、松平定信に献上する。文政11年(1828)、邸内に山紫水明処(現存)を建てる。その後天保元年(1830)頃から体調を崩すが文筆活動を続け、『日本政記』『通議』等の完成を急ぐなか天保3年(1832)9月23日に没する。著書に他、『日本楽府』『山陽詩鈔』『山陽遺稿』など。

頼山陽 詩書
詩書
頼山陽 山水図
山水図
頼山陽 山水図
山水図
頼山陽 山陽春琴二先生遺墨
山陽春琴二先生遺墨
頼山陽 山水図
山水図
頼山陽 詩書(小品)
詩書(小品)
頼山陽 詩書(小品)
詩書(小品)
頼山陽 山水図
山水図
頼山陽 美人詠
美人詠
頼山陽 蒙古来
蒙古来
浦上春琴 頼山陽 黄蜀葵
黄蜀葵

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