長良川画廊ホームページ遺墨展目録トップページ » 先人遺墨展目録 3
41.多賀雨岡庵 句入り懐紙 紙箱
紙本水墨40.8×27.2
◆多賀雨岡庵・1772〜1832 池田郡六ノ井村の人。美濃派再和派7世。俳号に文柳、裏人。天保3年に没。
42.青木奚花坊 一行「こころには〜」 紙箱
紙本水墨29×100.3
◆青木奚花坊・1771〜1858 本巣郡曽井村に生まれる。天保14年、支考墳墓の傍に連塔発句塚を建立。同年、九州行脚。俳号、風二、自然斎、貫汀夫、寿石など。著書に「つたふ梅集」「世々花集」「筑紫わたり」。美濃派以哉派第11世。安政5年に没。
43.山本友左坊 一行「影も匂ふ〜」 合箱
紙本水墨21.8×85.5
44.山本友左坊 句切「古池や〜」 合箱
紙本水墨13.6×59.6
◆山本友左坊・美濃本巣郡美江寺(北方町)に生まれる。俳号に梅州、卓路、雪香園、百茎園など。著書「おひのたび」。美濃派以哉派9世。弘化3年に没。
45.山田三秋 朱竹画賛 紙箱
紙本水墨31.7×137
◆山田三秋・1875〜1940 美濃本巣郡西郷に生まれる。武儀郡東武芸村谷口(武芸川町)の山田家の養子となる。長屋其馨に俳諧を、佐々木信綱に和歌を学ぶ。俳号に反古庵、耕月仙など。著書に「獅子門俳人名鑑」「花の雨」。昭和15年に没。
46.丹羽百穀 一行「本町史〜」 紙箱
紙本水墨27.7×87.8
47.丹羽百穀 一行「天寵の〜」 紙箱
紙本水墨22.2×131.5
◆丹羽百穀・1884〜1973 海津郡高須町の人。俳号に玄々庵。岐阜師範卒。町会議員、教育委員を務める。美濃派再和派25世。昭和48年に没。
49.三好学 張氏紅蘭 浅井柳塘 谷口靄山 合作
万事大吉図 千村家旧蔵 合箱
紙本水墨30.6×112.5
◆三好学・1861〜1939 美濃岩村藩江戸藩邸に生まれる。18歳で、(現瑞浪市立土岐小学校)に就任する。明治22年、東京帝国大 学理学部植物学科卒業。大学院在学中にドイツに留学し、帰国後の明治26年、東京帝国大学理学部教授に就任。日本の植物学の基礎を築き、 特に桜と菖蒲の研究で著名。◆張氏紅蘭・作品4参照。◆浅井柳塘・1842〜1907 長崎の木下逸雲、日高鉄翁、清人徐雨亭に学び、 谷 口靄山、貫名海屋にも師事した。明治13年、京都府画学校設立時に出仕教師となる。明治33年、全国南画共進会で二等銀牌を受賞。南 画家。明治40年に没。◆谷口靄山・1816〜1899 富山に生まれる。高久靄崖、貫名海屋に学ぶ。南画家。明治32年に没。
50.棚橋天籟 詩書 紙箱
紙本水墨79.6×149.5
◆棚橋天籟・1834〜1910
伊自良村に生まれる。維新の揖斐旗本岡田家を尊皇に導き、東征に出兵して戦功を立てる。維新後、大野、池田郡長、岐阜師範学校校長を務める。天籟私塾を開く。明治43年に没。
53.永田佐吉 宝珠図 合箱
紙本水墨27×63
◆永田佐吉・1701〜1789 現・羽島市竹鼻町上鍵屋町に生まれる。貧農の家に生まれ、幼くして両親を失う。10歳で名古屋の紙問屋に奉公に出る。仕事に励みながら暇をみつけては経書に親しむ。帰郷後、綿の仲買を始め、財を築き、石橋や道標、佐吉仏を築いた。人のために尽くす多くの逸話から「仏佐吉」と呼ばれた。寛政元年に没。
54.神山鳳陽 詩書 紙箱
紙本水墨50.3×24.4
◆神山鳳陽・1824〜1889 美濃に生まれる。名、述。別号、三野々史、三野老人など。京都に移り私塾を開く。明治2年、私塾立命館に招かれ江馬天江、富岡鉄斎らとともに講師となる。著書に『鳳陽遺稿』など。儒者。明治22年に没。
55.本庄道芳 書状 合箱
紙本水墨43.7×32
◆本庄道芳・1604〜1668 徳川綱吉の生母桂昌院の兄。高富藩初代道章の祖父。高富藩祖。宮内少輔。寛文8年に没
56.本庄道美 書 合箱
紙本水墨67×28
◆本庄道美・高富藩第10代藩主。
57.徳川慶勝 一行書 合箱
紙本水墨32×121.2
58.徳川慶勝 書 額装
紙本水墨51.2×25
◆徳川慶勝・1824〜1883
江戸に生れる。美濃高須藩主松平義建の二男。初名、義恕。字、君恪。号は初め盛斎、後月堂。嘉永2年、尾張藩14代藩主になる。反井伊の尊皇攘夷派で安政の大獄で隠居謹慎となり異母弟の茂徳に藩主の座を譲るが、井伊暗殺後復権し、子の義宣を十六代藩主に据えて藩政の実権を握った。藩内佐幕派を一掃(青松葉事件)し倒幕の一端を担う。明治3年、名古屋藩知事。明治16年に没。
59.竹腰豫堂 詩書 合箱
紙本水墨59.4×123
◆竹腰豫堂・尾張藩の重臣、今尾竹腰藩(海津市)九代当主。文武に長じ、多くの書画が残る。名は正美、豫堂と号す。
60.森田草平 和歌 信濃路や〜
短冊 額装
紙本水墨6×36.2
61.森田草平 雲悠々 短冊 額装
紙本水墨6×36.2
◆森田草平・1881〜1949 方県郡鷺山村(岐阜市鷺山)に生まれる。本名、米松。明治28年、岐阜市高等小学校(京町小学校)卒業。明治32年、第四高等学校(金択大学)に入学するが、郷里の恋人つねとの同棲が発覚したため論旨退学となる。明治36年、東京帝国大学英文科に入学。明治38年、夏目漱石を訪ねて師事する。明治39年、同学卒業。明治42年、平塚らいてうとの心中未遂事件を題材にした『煤煙』を朝日新聞に連載を開始する。大正9年、法政大学英文科教授。大正12年、自伝的小説『輪廻』を『女性』に連載。その後は『吉良家の人々』『細川ガラシヤ夫人』などの歴史小説を著す一方でイプセン、ドストエフスキー、セルバンテス、ダヌンツィオ、ボッカチオなどの翻訳を手がける。昭和23年、日本共産党に入党、随筆集「私の共産主義」を出版する。安倍能成、小宮豊隆、鈴木三重吉と共に漱石門下四 天王に数えられた。昭和24年に没。