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美濃派二世
栗几宛書翰
奥の細道むすびの地のつどい記念特別展図録(大垣市編)所載作品
寛文五年(1665)、美濃山県郡北野に生まれる。父吉三郎、初め村瀬姓、五歳で父と死別し同じ北野村の大智寺に入り僧籍となる。十一歳のとき、「いろは葉に出て散りぬる紅葉かな」の句がある。播磨の盤桂和尚に参禅するも十九歳で還俗、宇治山田に隠遁、医を業にする傍ら、岩田凉菟に俳諧を学ぶ。元禄三年、二六歳のとき、内藤丈草、乙州と同道し近江膳所の無名庵に芭蕉を訪ねる。元禄四年、芭蕉に従って江戸へ下る。翌五年、東北松島の旅に出、「葛の松原」を著す。芭蕉没後、蕉風俳諧を広め、俳諧論を説きながら、広範囲に活動し、師の追悼事業も大々的に行う。その後、芭蕉の後継者として、美濃を中心に多くの門人を擁し、獅子門美濃派と呼ばれる一大俳諧勢力を築く。主な俳号は、見龍、東華坊、西華坊、獅子老人、是仏坊、羚羊子、華表人、野盤子、卉名連、蓮二、黄山老人、佐渡入道、白狂、桃花仙、梅花仙、渡辺狂など。主な著書は、「葛の松原」「笈日記」「続五論」「東華集」「西華集」「俳諧十論」「十論為弁抄」「和漢文操」「本朝文鑑」など。享保十六年(1731)、六十六歳で没。
美濃派三世
寒菊~
桃節 和詩
元禄元年(1688)に美濃国本巣郡北方に生まれる。俗称与兵衛。二十四歳の頃各務支考に入門。享保十二年から十三年にかけて三越、加賀の旅に出て、「桃の首途」成る。同十五年三月、近畿から九州にかけて旅に出、翌十六年五月、小倉にて先師支考の訃を聞く。主な門人に田中五竹坊、神谷玄武坊、広瀬違支、片山寸長。主な編書に「文星観」「其日歌仙」「花供養」「三つ物拾遺」など。俳号に、里紅、茶話窟、茶話仙など。延享四年(1747)に没。
美濃派四世
山寺の~
水鶏~
元禄十三年(1700)に美濃国本巣郡北方に生まれる。幼名、幸次郎、後、市郎八。各務支考、仙石廬元坊に俳諧を学ぶ。やがて五竹坊は道統を安田以哉坊に譲るが、両者の間に論争があり、以降美濃派は以哉派と五竹坊の門人河村再和坊に発する再和派(北方派)に分裂する。主な著書に「入梅の後」「七めぐり」「十二夜話」「帰童仙句評」など。俳号に五筑、琴左、帰童仙など。安永九年(1780)に没。
美濃派五世
虫の音~
美濃派の系譜展(大垣市)図録所載作品
正徳五年(1715)に美濃方県郡黒野に生まれる。名は忠兵衛。美濃派五世を継ぎ、以哉派を創始した。各地を旅し、多くの俳人と交流した。俳号に二狂、雪炊庵、無事窟、玉茶坊、飛鳥仙、只眠舎など。著書に「奥羽行」「百里鶯」。安永九年(1780)に没。
美濃派以哉派六世
月三題
享保12年(1727)に美濃不破郡岩手に生まれる。俗称、瀬兵衛。岩手藩の家臣。俳号に傘狂、朝暮園、老森庵、風諭子、花中人など。著書に「傘狂責」「道の月」「世の花」。寛政五年(1793)に没。
美濃派以哉派七世
朝顔画賛
元文三年(1738)に生まれる。江戸下谷徒士町に住む。平太夫源安と云う。徳川家の家臣。文化三年、京都永観堂に美濃派連塔建立。俳号に信我、道元居、竹華仙、敲月斎弄花など。著書に「道の花集」「四季大概」。文化14年(1817)に没。
美濃派以哉派八世
詰翠亭音信囀りの句
延亮2年(1745)に生まれる。三河大嶋の人。初め名古屋に住し、寛永三年、岐阜へ移住。晩年は大垣に住す。俳号に暮来、以雪庵、無別庵、麓庵など。著書に「枝竹庵」「桜塚集」。文化九年(1812)に没。
美濃派以哉派九世
風の香や~
昼顔や~
文歴六年(1756)美濃本巣郡美江寺に生まれる。俳号に梅州、卓路、雪香園、百茎園など。著書「おひのたび」。弘化三年(1846)に没。
美濃派以哉派世十世
荒波も~
美濃派の系譜展(大垣市)図録所載作品
明和五年(1768)に生まれる。美濃各務原郡長束村手力雄神社の神官。俳号、雅兆、青雲斎など。著書に追善「路とふ集」。天保八年(1837)に没。