頼山陽詩題
【原文】
李竹嬾云、倪法皴、従大李将軍斧劈
変化。此論駭人。蓋南北分旨、在毫髪間、可
与知者道耳。因仿雲林偶及之。
【訓読】
李竹嬾云はく、倪法の皴は大李将軍の斧劈より
変化す、と。この論、人を駭(おどろ)かす。
けだし南北の分旨は毫髪の間に在り。
知者とゆうべきのみ。因(よ)りて倪雲林に仿(なら)ひて、偶(たまたま)これに及ぶ。
子成、併(あわ)せて書す。
【語釈】
〈李竹嬾〉
李竹懶とすれば、明代の文人李日華(1565)のこと。『六硯斎筆記』などがあるが、引用句の典拠は未詳。
〈倪法の皴〉
「倪」とは、元代の画家、倪瓚(げいさん)、号は雲林居士のことである。山水画に巧みで詩人でもあった(1301~1374)。詩文集『清閟閣集』十二巻がある。「皴」とは、山水画で山や石のひだを描き表す技法。皴法という。よって、「倪法の皴」とは倪雲林の用いた皴法ということである。
〈大李将軍〉
唐代の画家李思訓(651~716)、字は建のこと。王室の一族で、北宗画の祖とされる。その子の昭道も画にたくみで、大李・小李と並称される。
斧劈(ふへき)―山水画で、岩石などを描く画法の一つ。おのでつんざいたようなさまを描写したもの。
〈南北〉
南宗画と北宗画のこと。南宗画は唐代の王維を祖とするとされ、主観的表現を指向する傾向があり、後に所謂「文人画」と呼ばれるようになる。北宗画は李思訓を祖とする流派で、五代・宋・元の画壇の主流で院体画ともいう。後に、前者が文人の余技的側面及び、その自由な精神の発露であることが強調されるのに対し、後者は職業絵師の画風であるとして、前者からは軽侮せられる傾向が見受けられる。ここでは、倪雲林を南宗画を代表する一人と見て、その皴法が北宗画の祖李思訓の技法から来ているという、李日華の考え方に意外性を看取しているのであろう。
〈毫髪〉
細い毛。転じて、わずかなこと。ささいなこと。
【訳文】
李竹嬾(李日華)がいうには、「(南画の)倪雲林の皴法は、(北画の)李思訓の斧劈から変化したものである」と。この論は人をおどろかせるものである。
確かに南宗画・北宗画の相違は、ほんのささないなことなのである。
(李日華)はものをよく心得た人というべきであろう。よって、私も倪雲林の画風にならって、たまたまこのような画を描いてみたのだ。頼子成、あわせて題も書く。
本紙に若干、経年の折れ、シミ、ヤケあり。