白隠慧鶴 Hakuin Ekaku
貞享2年(1685)~明和5年(1768)
日本現代の禅は、曹洞禅と臨済禅の二大流に別れる。併し曹洞禅と云うは、その実道元禅で、臨済禅は白隠禅に外ならぬ。道元は鎌倉の人、白隠は徳川中期の人である。道元禅の特色は元より曹洞禅のものではあるが、道元には、「正法眼蔵」と云う大部の書物があって、この書物の研究が日本曹洞禅の特異性を成立させている。日本の臨済禅は宗時代の看話禅と云うものの影響を受け、それが徳川時代になって、白隠によりて頗る組織的なものとなった。これが今日の臨済禅である。 ─(鈴木大拙・『盤珪の不生禅』)─
駿州駿東郡浮島原(現・静岡県沼津市原)の長沢家の第五子三男として生まれる。幼名岩二郎。元禄8年(1695)、母に従い日蓮宗日厳上人の「摩訶止観」の講義を聞き、地獄の恐ろしい様相に戦慄する。元禄12年(1699)、松蔭寺の単嶺祖伝について出家。宝永元年(1704)、美濃瑞雲寺の馬翁に師事。同5年(1708)、越後高田の英巌寺性徹に参じ、一夜暁に達し遠寺の鐘声を聞き豁然として大悟。同年4月、信州飯山の正受老人の鉗鎚を受け、八ヶ月で悟徹嗣法する。享保3年(1718)、妙心寺第一座となり白隠と号す。臨済禅中興の祖、近世最大の禅僧ともいわれ、諸国を遍歴し禅の民衆化に努めた。
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