乃木希典 Nogi Maresuke

嘉永2年(1849)~大正元年(1912)

江戸長府毛利藩邸に生まれる。幼名、無人。後に源三、文蔵と称した。父希次は長府藩馬廻り役で江戸在勤の定府。この毛利藩邸には、吉良屋敷に討ち入りした赤穂浪士11名が預けられ、切腹するまでの50余日を過ごす。毛利家ではこの赤穂浪士11名を名誉の義士として遇し、以後彼らを忠臣の誉れとして語り継ぐ。父希次は、この藩邸で礼法師範も務めた。安政5年(1858)9歳、父に従い長府に戻り、豊浦(山口県下関市長府)に住む。この頃より、漢学詩文、兵学、馬術、剣術、弓術、故実、武家礼法を学び、元治元年(1864)16歳、松下村塾の創立者で吉田松陰の叔父、玉木文之進に入門し、同家より萩の明倫館に通う。慶応2年(1866)17歳、第二次長州征伐が起こり、長府藩報国隊に入隊し幕府軍と戦う。明治元年(1868)19歳、長州藩隊に従い東北に転戦。明治4年(1871)23歳、京都御親兵の陸兵練兵教官となる。陸軍少佐に任官。希典と改名する。明治10年(1877)28歳、小倉営所司令官心得兼務となる。西南戦争に参加。連隊旗を喪失。(乃木の遺書第一の項に、「自分此度御跡ヲ追肥ヒ賜リ自殺候段恐入候儀、其罪ハ不軽存候 然ル処、明治十年之役ニ於テ軍旗ヲ失ヒ、其後死処得度心掛候モ機ヲ得ズ 皇恩ノ厚ニ浴シ今日迄過分ノ御優遇ヲ蒙追々老衰最早御役ニ立候時モ無余日候折柄此度ノ御大変何共恐入候次第?ニ覚悟相定候事ニ候」と記し、連隊旗を喪失を殉死の唯一の理由にあげている。)明治11年(1978)30歳、旧薩摩藩士湯地定之の娘静子と結婚。明治20年1月(1887)38歳から明治21年6月(1888)40歳までドイツ留学。帰国後は、留学前の生活を一変させ、質素で厳格な生活に徹するようになる。明治27年(1894)46歳、日清戦争に出征。明治28年(1895)47歳、陸軍中将となる。明治29年(1896)48歳、台湾総督に就任。明治31年(1898)50歳、台湾総督辞職。明治37年(1904)2月56歳、日露戦争始まる。第三軍司令官として旅順攻略戦を指揮。長男勝典が金州南山で、次男保典が203高地で戦死。この年陸軍大将となる。明治40年(1907)59歳、明治天皇の意を受けて学習院院長となり、軍事参議官と兼務する。大正元年(1912)9月13日63歳、明治天皇大葬の夜、赤坂の自宅で妻静子とともに自刃。

乃木希典 乃木大将書翰
乃木大将書翰
乃木希典 乃木静子 清風
清風
乃木希典 東郷平八郎 乃木東郷兩将軍短冊
乃木東郷兩将軍短冊
乃木希典 和歌
和歌
乃木希典 豊永長吉(印藤聿)、豊永和吉宛書簡
豊永長吉(印藤聿)、豊永和吉宛書簡
乃木希典 乃木静子 和歌 双幅
和歌 双幅
乃木希典 富士
富士
乃木希典 詩書
詩書
乃木希典 詩書
詩書
乃木希典 詩書 爾霊山
詩書 爾霊山
乃木希典近藤懿十郎宛書簡(次男乃木保典戦死慰問状に対する返書)
近藤懿十郎宛書簡(次男乃木保典戦死慰問状に対する返書)
乃木希典書状
書状
乃木希典 横田栄太郎宛書簡
横田栄太郎宛書簡
乃木希典 教育勅語
教育勅語
乃木希典 爾霊山
爾霊山
乃木希典 凱旋
凱旋

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