仙厓 Sengai
寛延3年(1750)~天保8年(1837)
仙厓は、美濃国武儀郡(岐阜県関市)に生まれたことは確実であるが、その詳しい出自はわかっていない。(武儀郡谷口の井藤甚八の次男として生まれたとするのが有力とされる。)11歳のころ清泰寺(美濃市)の空印円虚のもとで出家得度。19歳の時、武蔵国(横浜保土ヶ谷)の東輝庵の月船禅慧の弟子となる。天明元年(1781)32歳の時に月船が遷化し、東輝庵を辞し諸国を行脚、天明7年(1787)38歳の時に妙心寺塔頭雲祥院、大珠院の推挙で博多聖福寺第百二十二世住持盤谷紹適の弟子となることを承諾。翌天明8年(1788)年博多へ招かれ、寛政元年(1789)聖福寺の第百二十三世住持となる。(以降、文化8年(1811)62歳まで、聖福寺住持を務める。)寛政10年(1798)本山妙心寺より瑞世之儀(臨済禅僧最高位の衣である紫衣を受け本山の住職になる資格を得ること)を辞退。(以降、二度の勧めも辞退する)文化8年(1811)法席を弟子の湛元東夷に譲り引退、翌文化9年(1812)塔頭幻住庵内の虚白院へ移住、隠棲する。
禅の境地をわかりやすく説き示す軽妙洒脱でユーモア溢れる仙厓の禅画の多くは隠棲生活の間に描かれ、「うらめしや わがかくれ家は雪隠か 来る人ごとに 紙おいていく」という狂歌から、博多の人々に親しまれ仙厓の晩年が偲ばれます。
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